通学路のいたる所に「硫酸瓶」がある。この町と硫酸瓶、とても見慣れた組み合わせだが、なぜなのかは知らない。そこで、なぜ山陽小野田市にたくさんの硫酸瓶があるのか調べることにした。

調べる方法

  1. 図書館に行き、本で調べる
  2. 実際に自分の足で確かめる 
  3. 歴史民俗資料館に行く
  4. 郷土史研究会の方の話を聞く
  5. 取材に行く
  6. アンケート調査を行う
そもそも硫酸とは?
しらべてわかった!

硫黄と酸素と水素の化合物で、ふつうはその水溶液のことをいう。

硫酸瓶ってどういう物?

これが市内でよく見かけるタイプの硫酸瓶。道路の中央分離帯に置かれていたり、小さな公園や民家の庭にある。
見た目・・・光沢のあるこげ茶色
触り心地・・・ブツブツざらざら
重さ・・・ぼく一人で抱えるのは無理。お父さんなら一人で大丈夫。

小野田市歴史民俗資料館の資料に載っていた写真

すごいぞ!硫酸瓶!!

それは何?

ぼくは「ステンレス!」と答えた。

郷土史研究会の松永さんに教えてもらってわかった!

「硫酸」には「金属を溶かす性質」があると教えてもらった。
だからステンレスではダメ!
答えは陶器!

優れた硫酸瓶を作るのに一年半もの試作期間があった。
釉薬は、瓶の内側までほどこしてある。

Q.もし硫酸がこぼれたら
A.皮フについたらやけど。木の上にでもこぼれたら火事になる!!
実際に硫酸工場が火事になったケースは何件もあった。

検瓶してダメだった瓶は、瓶垣用になる。

こんなにたくさん・・・

下校時いつも気になっていた瓶垣

ぼくの通学路にとても立派な瓶垣がある。しかもめずらしいことに瓶の底の方がこちらを向いている。

なんと両側とも瓶垣になっている!

所有者さんに、
とつげき取材をしてわかった!

この瓶は硫酸瓶に似ているが焼酎瓶だそうだ。

所有者さんは、他の硫酸瓶に関する情報を下さった。「あそこの家にはフタがいっぱいあるから行ってみたら?」と勧められた。さっそく教えていただいた場所へ向かった。

珍・硫酸瓶のフタがたくさんあるお宅!と
市の指定文化財 旦の登り窯

このお宅には、なんと硫酸瓶のフタだけが、たくさん地面に埋めてあった。その中の一つを取り出してぼくに下さった!!

さらに、教えていただいた、旦の登り窯にいった

平成6年12月14日小野田市指定文化財に指定された旦の登り窯。旧江本製陶所。昭和8年構築
火口から煙突までの長さ28,6m煙突の高さは123mだったが、煙突は台風で倒壊した。

旦東の土が「焼物」に適していると見出した人
陶工甚吉と窯業の発展

しらべてわかった!

陶工甚吉は1840年代に製陶にたずさわった家に生まれた。
当時、百姓の手伝いに来ていた甚吉は、畑をたがやす時、その土が焼き物に適していると発見。萩藩大組士が焼物の窯を築かせた。これが「旦の皿山」のはじまり。
1858年甚吉は病死。その後甚吉窯は廃絶してしまう。
しかし1876年に尽力者により再び開窯した。

全国各地から集まった職人の技術

硫酸瓶は高さ約50cm、幅直径約35cmと、皿などの日用雑器に比べて大きい。焼物で大きな物を作るのには、とても技術がいる。瓶造りの職人や窯焚きなど、島根県の石州や山口県の防府、愛媛県の宇和島からの来住者が多かった。特に石州の「半胴がめ造り」の技法が参考になったと言われている。

日本舎密製造㈱(現 日産化学工業㈱)と
ともに栄えていった硫酸瓶の製造

1873年 日本舎密製造㈱小野田工場が設立。※舎密(せいみ)とはオランダ語で「化学」。75年操業。製品の硫酸や硝酸の容器は、当初ドイツや滋賀県の設楽から取り寄せていたが、コストが高くつくことから、旦の皿山に着目。研究の結果、小野田の土が耐酸性に優れていることが分かり製品化に成功。
1894年、戦争等で国が大変な中、硫酸瓶だけでも78万数千本を焼成している。全国生産量の70%!

皿山で焼いた硫酸瓶の運搬は有帆川

出来上がった硫酸瓶は船で運ぶ。
旦と日産化学は1~2kmしか離れていないが瓶が重たいので船で一気に運んだ方が早かったのだ。

変わりゆく時代と硫酸瓶

しらべてわかった!

硫酸瓶は残念ながら現在生産されていない。1952年頃から硫酸の輸送容器は鉄製のタンクローリーに、少量の容器はポリエチレンとなり鉄道やトラックでの輸送が容易になる。更に、同窯で製造していたレンガや瓦も建築が時代とともに鉄筋コンクリート造りや洋瓦にかわり、次第に廃業に追い込まれた。現在、唯一残っているのが1931年に創業した松井製陶所である。

硫酸瓶アンケート!100人に聞いてみた!!

「硫酸瓶」を知っている自分の身の周りの子ども10人、大人90人に硫酸瓶についてアンケート調査を行った。

質問は3つ。

  1. 子どもか大人か。
    山陽小野田市在住か、市外在住か。
  1. なぜ、硫酸瓶を知っているか。
    さらに、市内で見た人はどこで見たか。
結果

市内在住62人 市外30人 無回答8人

  1. 質問②で「家にある」と答えた人に、何に使っているかを聞いてみた。

他にも、とても参考になるコメントや画像も下さった方々もいた。

まとめ

山陽小野田市と硫酸瓶。それは偶然、陶工甚吉が畑をたがやす時に、この地の土が焼き物に適していると発見することから始まった。
現 日産化学工業㈱が、この地に硫酸工場を築き、窯業と工業は共に成長していく。
しかし、化学の発展と共に、今度は硫酸瓶に代わるプラスチック製の容器、更にはライニングされたタンクローリーが硫酸の運搬の主流となり、硫酸瓶は必要なくなってしまった。今では市内のあちこちにかつて窯業で栄えた痕跡があり、市の魅力の一つになっている。

感想

ぼくの祖父母の家は、山陽小野田市の旦東にあります。小さい頃から硫酸瓶という物も自然に知っていました。それに関する焼き物も旦には至る所にあって見慣れていました。
しかし、「硫酸瓶」とは何かということについては全く知りませんでした。調べを進めていくうちに、どれもぼくにとって初めての経験で大変でしたが楽しくもありました。

この学習の中で、本「窯業の里小野田」に載っている、所有者不明となっている場所、
「ここはぼくんちの畑です。所有者はぼくの父です」と郷土資料研究会の松永さんに言ったら、「いのし河内(地名)・・・ここが陶工甚吉が畑をたがやしている時に、この地の土は焼き物に向いていると発見したところだよ。」と教えて下さり、ぼくは大大大こうふんでした。
陶工甚吉がぼくを硫酸瓶を調べる学習に導いてくれたのかもしれません。

最後に、今回のぼくの学習に力を貸して下さった皆様本当にありがとうございました。ぼくはこの町と硫酸瓶の魅力を語りつぎます。