海に面し川が流れる八戸市、水の豊かなこの地域になぜ水利事業が必要だったの?
川はあるけれど田まで水を引くのは大変だったのかな?幕藩体制で強制的に米を作らされたためもっと田が必要だったのでは?


この頃の八戸はヤマセが吹く冷涼な気こうだったため、凶作が続き飢きんに苦しめられていた。水田は水を確保できる低地にしかなかったため、水を確保するためには新たな用水路を作り広い大地を潤す必要があった。
※ヤマセとは、東北地方北東部の海岸沿い一帯で初夏にみられる風。冷涼な北東風が数日ふき続け、気温が低下する。
水利事業に挑んだ蛇口伴蔵とはどんな人物だったのだろう?
伴蔵は藩の仕事をしながら水路作りをしたのかな?
仕事を辞めて水路作りに専念したのでは?八戸藩の仕事と両立させるのは大変なのでは?
まずは年表を見てみよう!

藩の仕事を辞めて水路を作ったんだ!
「私財を投げうって」水利事業に挑戦したという伴蔵。「水路を作る費用」ってどれくらいだったのかな?
50万円くらいかな?
私財は現金30000両と水田約30町歩、その他土地や貸付金もあった!
※30000両は、1両が130000円と計算して、約39億円。
水田約30町歩は、東京ドーム6個分以上の広さ。
39億円もの私財を世のために使おうとしたんだ!
ココがすごい!<伴蔵がお金を貯めるためにしたこと>
- ①自分の家屋敷を全て売って、小さい家を買って住んだり、兄の家にお世話になったりして、手元に残ったお金を商売のもとにした。
- ②夫婦で市場に出かけて安いものがあれば買い、相場が高くなるとそれを売った。親せきや友人の家に行き、買い物や売り物の注文を聞いて回り、朝に20軒もの家を回ったことも。
- ③高利貸し(高い利息でお金を貸した)
- ④「寛永通宝」というお金をせっせとたくわえ、価値が上がった時に大もうけした。
- ⑤「天保の百姓騒動」がおきたときに城下に集まった百姓に食べ物を売り歩いた
なぜ伴蔵は自分の財産を投げうってまで水利事業に挑戦しようとしたのだろう?
伴蔵は「人のために働きたい」という気持ちが人一倍強かったのかな?
幼いころから農民が苦しんでいる姿や飢きんをみてきた伴蔵は、20代前半から新しい田をどんどん開発して農民の生活を安定させ、八戸藩を、そして日本全体を豊かにしたいという思いがあった。
そんな時、「質そ節約をして、まずは自分の家を豊かにする。そしてその富を世のため人のために役立ててこそ、学問は生かされる。」との教えを受ける。そこで、まずは自分の家を豊かにし、財産をたくわえてから、それを世の中のために使おうと意思を固めた。
失敗に終わった水利事業
伴蔵が挑んだ大掛かりな水利事業は2ヶ所。しかし、どちらも失敗に終わります。伴蔵はどこを工事していたのかな?
本来計画していたのは5ヶ所。5ヵ所のうち3ヶ所は工事前に中止になり、「下洗上水」と「階上岳上水」の2ヶ所を工事した。

「工事①」< 下洗上水 > は完成したが失敗。
<失敗の原因>
- ①火山灰層だったため、用水堰から大量の水がもれた。
- ②水源の頃巻川の水量がもともと少なかった。
- ③けっかいを防ぐために高低差を小さくしたが、それがかえって水の流れる速さを速くし、水もれが大きくなった。
「工事②」< 階上岳上水 >
階上岳北を流れる道仏川と寺下観音そばを流れる寺下川から水を引いて蒼前平(八戸平原)の開田に挑戦した。
→3年後、洪水で用水路が埋まり、失敗。のちの人に受けつがれたが完成することはなかった。
伴蔵について書かれたどの本も「二つの水利事業に失敗した」と締めくくっています。
でも、それは本当に失敗だったのかな?
世増ダムと伴蔵の関係
僕の家から車で30分のところにある世増ダム。伴蔵とどんな関係があるのかな?
いざ、世増ダムへ!!

伴蔵の死後、世増ダムはどのように完成したのだろうか?
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大正10年 類家地区(僕の住んでいる地区)の耕地整理が行われ、用水源を新井田川に 変える計画が進められ、田向地区(類家地区のとなり)まで水が引かれた。
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大正15年 この頃人口がばく発的に増え、飲料用や消火用の水不足が問題となって 都市用水の必要性が出てきた。
↓ ~時代は昭和~ 国営開こん八戸平原事業
昭和30年代後半、農林省から青森・岩手にまたがる広大な八戸平原地域の開田計画が 持ち上がりその事業のひとつが「世増ダム」建設だった。
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昭和41年 世増地区に貯水量5400万㎥のダム建設の動きがはじまる。
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昭和43年 ダム建設予定地に住んでいる集落の人々に移転をお願いする説明会を行った。
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昭和58年 集落に住む住民に水没による補しょうについて説明を開始。
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平成2年 71戸の家が移転完了
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平成10年 世増ダム工事にとりかかる。
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平成15年 世増ダム完成
世増ダムは計画から完成まで35年以上!!伴蔵の死後137年間も、伴蔵の思いは受けつがれてきたんだね。


左岸展望台にそびえ立つ伴蔵の銅像。発展し続ける八戸の未来も指しているように見えました。
どの本も「二つの水利事業に失敗した」としめくくられていますが、ぼくはそう思いません。 39億円の私財を投げ打って世のために使うということはふつうの人ではできません。
二つの計画を達成させることはありませんでしたが、伴蔵の「私は元から、この水利事業が一代でできるとは思っていない。必ず後の人が私の遺志をついでくれるだろう。だから、私が死んだとしても私の精神は失われはしないのだ。」という言葉通り、明治・大正の土木技術の進歩による大きぼな水田開発をへて、昭和30年「国営開こん八戸平原事業」に受けつがれました。
どの時代にも「今の世の中を良くしたい」と思う人たちがいて、その精神がどんどん後の人たちに受けつがれました。世増ダムはそのあかしです。
伴蔵の働きがなかったら、もっと八戸の水利事業はおくれていたかもしれません。世の中が発展する元になった人、そういう人を「先駆者」というのだと知りました。 伴蔵はまさしく「八戸の水利の先駆者」です。