作品かんたん紹介
2018年(第22回)
調べる学習部門 中学生の部
『千代女もびっくり!!変化朝顔の世界~もっと身近にするために~』
岩倉 光理
石川県 / 白山市立 北星 中学校 2年生
文部科学大臣賞
「千代女が見た朝顔は何色?」地元の俳人・加賀千代女が詠んだ朝顔の句に興味を抱いた岩倉さん。多種多様な「変化朝顔」の世界を知り、DNA配列の変化やメンデルの遺伝法則から、変化朝顔が咲く仕組みを理解。自分で育てた変化朝顔の種を元に、大学の研究機関と共同栽培を開始し、継続的栽培に努めます。
「千代女が見た朝顔は何色?」地元の俳人・加賀千代女が詠んだ朝顔の句に興味を抱いた岩倉さん。多種多様な「変化朝顔」の世界を知り、DNA配列の変化やメンデルの遺伝法則から、変化朝顔が咲く仕組みを理解。自分で育てた変化朝顔の種を元に、大学の研究機関と共同栽培を開始し、継続的栽培に努めます。
「変化朝顔って」なぁに?
変化朝顔はもともとある品種?それとも突然変異?
わたしの予想
何かの突然変異だと思う。例えば、動物の世界でも突然変異によって色素が無いものが生まれているから、変化朝顔も突然変異によってできると思う。
調べて分かった!
変化朝顔とはDNA(遺伝子)配列の変化によって突然変異した朝顔のこと。1つの遺伝子は、決まった1つのタンパク質をつくり、色や形などを決める働きをする。遺伝子に変異が起こると、その遺伝子が働きをなくして生物の性質(表現型)が変化することがある。
調べて分かった!
大部分の変異は「動く遺伝子」と呼ばれるトランスポゾンによって引き起こされていることが分かった。トランスポゾンは遺伝子を分解し、壊してしまう。トランスポゾンが働くためには、転移酵素が必要だが、朝顔には転移酵素をもっているものがあり、転移の活性化が起こったものが変化朝顔になる。
変化朝顔を咲かせるためには、“メンデルの遺伝法則”にしたがい、目的の苗を選びとる作業を毎世代繰り返さなければいけない。
変化朝顔には種のできる“正木”と種ができない“出物”があり、出物のほうができる確率が低く、出物を維持するためには、約300粒の親木の種子が必要となる。
朝顔のルーツ
いつから日本にあったのでしょうか?自生していたのか?どこかの国から渡来したのか?
わたしの予想
朝鮮半島から伝わったのでは?以前、和紙や石垣、筆などについて調べたことがあるのですが、これらのことに共通していたのが、「朝鮮半島から伝わった」ということだったので。
調べて分かった!
日本へは奈良時代(710~794年)に遣唐使によって中国から持ち込まれました。種に下剤や利尿剤としての効用があることから、薬草として栽培されていました。呼び方は、現在の“朝顔”ではなく、「牽牛子」(ケンゴシ)。薬の謝礼として牛とひきかえられていたことから、この名前がついたそうです。薬局で調べてみると今も薬として使われていました!
原産国は分かっていないけれど、近代の研究では中南米原産説が有力。
朝顔はどのようにして多種多様になったの?
調べて分かった!
朝顔が登場する最も古い書物は「古今和歌集」。「枕草子」や「源氏物語」、「新古今和歌集」などにも和歌として登場していることから、平安・鎌倉時代には、薬としてではなく、観賞用として親しまれていたことが分かる!
変化は色から始まった!!
調べて分かった!
室町時代になると、白い朝顔が描かれた作品が!1681年に出された日本最古の園芸書「花壇綱目」には「浅黄・白・薄紫」の3色の記載。1763年の「物類品隲」には「花色数十種アリ」、さらに「重弁ノモノアリ。奇品ナリ。実結バズ」とある。
千代女が見た朝顔は何色だった?
調べるきっかけとなった千代女の句。この句が詠まれたときの朝顔は何色?
わたしの予想
千代女晩年には、花色も数十種類に増えていますが、千代女がこの句を詠んだのは10歳のとき。まだ青色が多い時代だったのでは?
調べて分かった!
図書館で見つけた本「少年読物文庫 加賀の千代女」に、「何とまあ、るり色のあさがおが一りん、ぽっかりと咲いているではありませんか。」との記述が。※るり色・・・むらさき色をおびた紺色。
朝顔の大ブーム!きっかけは江戸の大火事
調べてわかった!
文化3年、下谷御徒町で大火事「牛町火事」が起こる。この火事で多くが空き地となり、そこで朝顔栽培が始まった。変化朝顔の栽培に熱心な植木屋が朝顔作りを奨励、下級武士の内職として広まり、僧侶・医者・商人などの間にも広がっていった。「江戸名所花暦」によると、江戸下谷御徒町付近が朝顔の発祥地とされている。
第一次ブーム(1804〜1830)
朝顔の変異も鑑賞の対象となり、変化朝顔の栽培ブームが起こる。これにより、変異体の数が飛躍的に増える。花合わせ(今でいう品評会)も行われ、花の番付表まであった。また、変異ある苗を選ぶため、余分な苗を供養する墓も作られた。
第二次ブーム(1848〜1860)
より一層、複雑多彩な種類が増え、栽培規模も拡大。ブームを支える旗本や植木商がいた。現在の遺伝学においても理にかなっている「命名法」が確立された。
第三次ブーム(明治~大正時代)
明治の中頃から、品評会で花を競う同好会が各地で設立された。人工交配で新しい品種を作り出すことも盛んに。しかし、人工交配での品種維持が難しいため、花の大きさを競う大輪朝顔の育成が盛んに。
自分で育てたい!
研究スタート!!
まとめ
おもったこと
今回の調べ学習で一番感動したのは自分で育てた変化朝顔が咲いたことです。写真や国立歴史民俗博物館くらしの植物苑では見たけれど、自分で育てたものは、苗から開花まで待った分、感動しました。今回の研究から痛感したことがあります。確実に変化朝顔を出すためには、とても多くの親木の種子が必要だということです。2019年に向けて、親木の種子をたくさん集めようと思っています。まだまだ私の研究は続きます!変化朝顔を身近にするために頑張ります!
おもったこと
「朝顔や つるべとられて もらひ水」。
この句を詠んだ千代女は、一体どんな朝顔を見て、この俳句をつくったのかな?そんな疑問から、図書館である一冊の本と出会いました。そこには、私がこれまで見たことのない朝顔の姿が!「これが全部朝顔!?こんな朝顔見たことない!」この本との出会いから始まった約1年半の調べ学習。少しでも私のワクワクと感動が伝わって、みんなが変化朝顔に興味を持ってくれますように・・・