作品かんたん紹介
2019年(第23回)
調べる学習部門 大人の部
『新元号「令和」の典拠『万葉集』~なぜ万葉集には蝶の歌がないのか~蝶を通してみる古代の人々の思想とは』
日比野 陽子
愛知県 / その他
優秀賞・毎日新聞社賞
「令和」の典拠となった万葉集の歌の序には「庭舞新蝶」と蝶が描かれるのに、歌は一つもない――。この謎を解こうと、蝶の図案を求めて正倉院御物を、言葉を求めて同時代の文学「懐風藻」や「源氏物語」などを辿り、蝶の文化的宗教的意味を明かして、ついにその謎の答えを発見しました。
「令和」の典拠となった万葉集の歌の序には「庭舞新蝶」と蝶が描かれるのに、歌は一つもない――。この謎を解こうと、蝶の図案を求めて正倉院御物を、言葉を求めて同時代の文学「懐風藻」や「源氏物語」などを辿り、蝶の文化的宗教的意味を明かして、ついにその謎の答えを発見しました。
調べようと思ったきっかけ
『万葉集』に関わる新聞に気になる記事を見つけました。昆虫の「蝶」を詠った歌がひとつもないというのです。「令和」の典拠となった梅花の歌の序に「庭舞新蝶」とあり、蝶に目が留まっていたことは確かです。
まず、私にとって蝶といえば縁起物のイメージであり、着物の柄、また中国の文様のイメージです。中国では、蝶は縁起が良く高貴な身分の人に好まれたと聞きます。私自身も和装を好み、先日結婚式に参列した際に着た振袖も蝶の柄でした。中国で縁起物として扱われた蝶は古代日本においても縁起物であったのではないでしょうか。
仮説
そこで一つの仮説を立ててみました。それは、蝶は「中国にとって神聖な存在」、ゆえに歌に詠むことが憚られたのではないか、ということです。先の記事に「蝶は単なる季節の風物詩ではなく、もっと特別の存在だったのではないか」とあります。「特別な存在」=「神聖な存在」と連想できるのでは。ゆえに『万葉集』に一首もないのではないか。この仮説から出発です。
蝶の文様の意味合いについて、こんな記述があります。
「中国では「蝶」を「ぼう」と読む。八十才を意味する「耋」と同じ発音である事から、蝶の文様も長寿を表す吉祥紋となった。」
(早坂優子著『日本・中国の文様事典』)
確かに、蝶が縁起物という考え方はまちがっていません。ですが、この記述と同じページに掲載されている蝶の文様は清の時代のものでした。万葉集の時代とは大きく隔たっています。
この資料に日本における蝶の文様について記述がありました。
「日本人が蝶を愛でることは唐より学んだようだが、正倉院の宝物に現れる蝶はまだ添え物として扱われている。」
(早坂優子著『日本・中国の文様事典』)
唐は618~917年で、万葉集の時代と重なります。
また「中国では紋様(文様)を「装飾図案」と言います。「装飾図案」は、数千年の歴史を有し、その発展途上で、韓国、日本、東南アジアにも影響を及ぼしたのです。」
(早坂優子著『日本・中国の文様事典』)
とのことです。
では日本では使用されていないのでしょうか?
正倉院の宝物に、蝶を探してみます。
結果、見つけることができたのはほんの僅かでした。
2点を掲載しました。蝶の文様を赤丸で囲っていますが、確かに「添え物」という表現がぴったりで、とても主役には思えません。
この資料には、蝶が描かれた宝物は他にもあるが、蝶単独(=主役)で表された例はないと書かれています。やはり蝶は中国の影響によって「特別な存在」「神聖な存在」であり、表現することを遠慮、憚られたと思えるのです。
万葉の時代とはどのような時代だったのでしょうか。
万葉の世の仏教といえば東大寺です。実は、東大寺大仏殿に蝶の飾りがあります。この蝶、とっても不思議な姿をしていて、なんと足が8本あるんです。聞いたところ「極楽の蝶だから」とのこと。極楽にいるのだからこの世の蝶よりも立派なはず、それを8本の足で表したのではないでしょうか。
京都の北野天満宮に「北野天満宮の至宝」展に訪れた時、蝶の金具が展示されていました。説明文によれば、蝶は古来より神を守るものと考えられていたそうです。
仏教、神道ともに蝶が扱われていましたが、東大寺の飾りは江戸期に再建した時のもの、北野天満宮の金具は、鎌倉~室町期のものでした。時代が異なるということは、「神聖な存在」という考えの裏付けとしては弱いものになりました。
『万葉集』とは・・・日本最初の歌集 全20巻。7~8世紀の間にうたわれ、作られた長短さまざまの歌4500余首をおさめる。名義は万(よろず)の言の葉を集めた意とも,万世(よろずよ)に伝えることを期した意ともいわれる。
「懐風藻(かいふうそう)」は『万葉集』とほぼ同時期に作成された漢詩集です。成立は751年。
「・・・詩の内容は、待宴応詔など公的なうたげの詩が多く、(中略)中国の詩の改作に過ぎないものもあり、・・・」
(『世界大百科事典4』)
「懐風藻」に「階梅素蝶に闘ひ、塘柳芳塵を掃ふ」という一句があります。白い梅に白い蝶が飛び乱れる自然の美しさをそのまま詠んで、そこには蝶に対する「神聖な存在」という感覚は感じられません。
「懐風藻」は日本人の感覚ではなく、中国の思想、美的感覚を詠んだ作品ともとれます。
平安中期の紫式部作「源氏物語」に「胡蝶」の巻があります。ですが、この胡蝶は平安時代前期に作られた仏事の供養の楽です。紫の上が胡蝶の歌を詠みますが、それも供養の楽の胡蝶で、現実の蝶を表現したわけではありません。
ほかの巻に、光源氏が女性に装束を贈る場面でその柄としての蝶が登場しますが、これだけです。現実の蝶を詠んだ歌も語られた言葉もありませんでした。
今回の調べる学習のきっかけになった新聞記事にこんな一節がありました。
「蝶の幼虫は常世の虫と呼ばれ、この世とあの世をつなぐものとして大切にされた。」・・・
「常世の神」という、まさに「蝶」を祀った宗教運動が「日本書紀」(720年)に記されています。644年、大生部多という男が橘の樹につく幼虫を常世の神として祀り、民衆を惑わした。そこで秦造河勝が討伐したというものです。
この幼虫こそが蝶の幼虫です。
クロアゲハの幼虫(左)との見方が定説ですが、シンジュサンという蚕(蛾)の幼虫(右)という説もあります。
まず時代背景を見てみます。
「常世の神」運動以前の40年間、あらゆる天災が起きています。
権力者は、政治目的のために寺院を建てます。しかし多くの民にとって仏教は未知の外来文化の上に、寺院建立に駆り出される負担も大変なものでした。
天災と強制労働、そこからの救いを求めたのが「常世の神」運動だったのです。
結果的に、この運動は仏教の推進者である聖徳太子の側近、秦造河勝によって討たれることになりました。
蝶は、幼虫→蛹→成虫と完全変態する昆虫です。当時の人には、地を這う幼虫は蛹の時に一度死んで、空を舞う蝶として生まれ変わる・・・、そう見えたのです。
「蝶の幼虫」は、現世の苦しさののちの理想郷への足掛かりでした。それゆえ「常世の神」信仰のシンボルになったのではないでしょうか。
蝶が完全変態するという特徴に、当時の人々が特別の思いや信仰をいだいたことを知りました。でもそれが、万葉集の時代に「歌に詠わない」「装束の柄に主役として描かない」理由にはなりません。
ところが、蝶について調べていくうちに予想だにしなかった言葉を繰り返し見ることになりました。
「いまでこそ蝶は人に親しまれている。採集・飼育・蒐集・研究はいうに及ばず、私たちは造形美術のあらゆる分野でその図案・文様に接することができる。けれども、こうした風潮がめばえるのは奈良時代以降のことで、古代、人は蝶に対して素朴な畏怖心、呪術的な感情をつよく抱いていたのである。」
(小西正己 "擬態するクロアゲハ"古代の虫まつり 学生社、1991、p42)
「昔の人は青虫から美しい成虫に姿を変える蝶に呪術性を感じたり、また不死不滅のシンボルとして戦場に赴く武士たちに好まれ、蝶文を紋章にした武士もあったことが文献にある。しかし、蝶を死霊の化身、不吉なものとして蝶文を嫌う人もあって、時代や地方によって吉凶の見方は異なる。」
(藤原久勝 "蝶文"キモノ文様事典 淡交社、2001、p133)
「鎌倉時代では羽を立ててとまる凛々しい「揚羽蝶」が武家に好まれ、華麗さを誇示するだけでなく、戦場に散る命を天国に届けてくれるように勇ましい武具に託し、(中略)蝶が死を体験する生き物として、死霊の化身で不吉とする考えもあり、近代では花から花へ移り気な性質と死というイメージを嫌って、婚礼などの衣装には避けられた。」
(弓岡勝美、藤井健三 "蝶"帯と文様:織り帯に見る日本の文様図鑑 世界文化社、2008、p98)
チョウチョというと花の蜜を好むというイメージがありますが、むしろ木の汁や動物の糞、そして死骸にとまって有機物を吸う種類が多いそうです。特にジャノメチョウ科のジャノメチョウやヒカゲチョウは山で遭難した死体にびっしりとまっていたなんて話もあるといいます。
ジャノメチョウ
「鱗翅目ジャノメチョウ科に属する昆虫の総称。またはそのうちの1種を指す。(中略)成虫は森林にすむものでは、おもに樹液や発酵した果実などに、動物の死骸や排出物などにもよく集まる。」
(高橋真弓 "ジャノメチョウ 蛇の目蝶"世界大百科事典 12 平凡社、1988、p731)
ジャノメチョウやヒカゲチョウは、日本中どこでも見られる蝶ということです。
そして、集まるのは動物の死骸とは限らないでしょう。先に万葉集の時代の災害を調べた時に、626年は飢饉がすさまじく、老人は草根を食らい道のほとりに死す、とあります。こうして亡くなった民たちの死体に蝶がとまっていたということでしょう。
古代から鎌倉時代ころまで、民たちの亡骸は基本的には放置(風葬)されていたそうです。
古代の人たちは、蝶が、放置された死体に群がる様子を目にすることは多かったことでしょう。
幼虫から蛹という死を経験して蝶となった、その蝶が死体に群がる風景はどう映ったのでしょうか。人が蝶となったという風に見えていてもおかしくありません。腐敗していく死体から蝶となり姿を変えた人は、その人の完全なる死と判断したかもしれません。
死者に群がる蝶=「死霊の化身」として不吉な存在となっていったのでしょう。これこそが万葉集に蝶の歌が詠まれない理由なのでしょう。
おもったこと
今回、新元号の令和から万葉集の疑問にはじまり、自分なりに様々な角度から調べてみました。結果として、当初の仮説とは異なる結果となりました。
蝶は「神聖な存在」ではありませんでした。その観点がまったくない訳ではありませんでしたが、どちらかというと「不気味な存在」や「不吉な存在」でした。蝶は古代の人々にとって「死霊の化身」であり、畏怖の対象だったのです。
古代の日本は中国の強い影響を受けていたことは間違いありませんが、そっくりそのままという訳ではなかったのだと改めて気づかされました。
今回、なぜ万葉集には蝶の歌がないのかという疑問からスタートした調べ学習ですが、蝶という観点から見た古代の日本人は自分たちの思想を大事にし、ひいては自分たちの国に誇りをもっていたのだということを、歴史を通して学び、自分の知識として得ることができました。