作品かんたん紹介

調べようと思ったきっかけ

オンライン授業で「北前船」について学びました。また図書館で、秋田で行われるイベントの案内を見つけ、北前船が地元の秋田の港にも寄っていたことが分かりました。

「へえー!!秋田にもよってたんだ!」と胸がワクワクし、もっとくわしく知りたいと思いました。

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調べる方法を考えました

図書館では「北前船」はじめ、「江戸時代 歴史」「海」「船」というキーワードで本を探しました。祖父に聞いて「郷土資料コーナー」も探しました。また、北前船カードラリーやパネル展に行って話を聞いたり資料をもらったりしました。「河村瑞賢」という人が、かかわりがありそうだと分かりました。ほかに、北前船のオンラインセミナーに参加しました。

三つの図書館にくわえて、資料館、歴史伝承館などや、秋田市観光振興課を訪ねて、話をききました。

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北前船ってなに?

調べて分かった!

北前船は、江戸時代の中ごろから明治30年代にかけて、大量の荷物を積んで日本海を往来していた船のことで、特徴として三つがあげられます。

①大阪と蝦夷地(北海道)を日本海回りで往復していた船
②寄港地で積荷を売り、新たな仕入れもした船
③帆船

江戸時代は、「回船」といって荷物を積んで海を走る船はいろいろな種類がありましたが、北前船は、寄港地で「安いものがあれば買い、高く売れるものがあれば売る」という「商売」をしながら往復していた船です。これを「買積船」といい、北前船がほかの回船と最も違う大きな特徴です。

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船が人々の生活をゆたかにする重要なやくわりをしていることがわかりました。

でも、ぎもんに思ったこともあります。「たっくさん調べるぞー」

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おおきなぎもんは4つ

調べて分かった!

それは、船が大量の荷物を運べるから。

運べる米俵の数でくらべると、馬のせなかは2俵、牛車は15俵、船は3000俵以上、重さ約150tをつめる!
しかも遠くまで運ぶよ。

(感想)船は大量の荷物を運べるなんて、すごい!

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関ケ原の戦いに勝った徳川家康が征夷大将軍になり、江戸には幕府が誕生しました。大阪はといえば、大坂(阪)冬の陣・夏の陣があって大坂(阪)城は焼失し、町は焼け野原になりました。

そんな大阪の街に町人を呼びもどそうと、新しい市街地を開発し、市中に物資を運ぶための運河を作りました。

その結果、大阪は「天下の台所」と呼ばれる経済の中心地になるとともに、原料を仕入れて加工する「産業都市」に発展していきます。

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関ケ原と北前船??
本当につながりがあるの?

(感想)大阪城がやけのはらになっちゃったー、どうしよう、と思いました。そのあと、幕府は町人を呼びもどしたり、河村瑞賢が北前船の航路を開いたりしたので、つながりを感じることができました。

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河村瑞賢は北前船に一番かかわりがありそうなので調べてみることにしました。

河村瑞賢は三重県の貧農の家に生まれました。江戸に出て、明暦の大火の後、材木を買い占めて財を成しました。この頃の江戸は、人口が増え米の需要が増え、主食であり重要な財源である御城米を早く安全に江戸に運ぶ必要がありました。

瑞賢は、商才を見込んだ幕府の命により、寛文11(1671)年「東廻り航路」を整備し、翌年「西廻り航路」を整備しました。

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瑞賢の方策は、北国海運に慣れた民間の船をやとう、酒田の港に専用の米倉を設ける、寄港地の入港税をなくす、危険な港には水先案内所を備えたりのろしを上げたりする、寄港地を10か所きめて、船の保護にあたる役人を置く、などでした。

瑞賢は用意周到で周囲の人をあっと言わせるような「アイディアマン」で、さらに「人の成功をよろこぶ」ような人だったので幕府から信頼を得ていたのでした。

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北前船はどんな船?

調べて分かった!

弁才船(船の形)…堅牢な造りで安い、つみおろしがしやすい、帆走能力が高く少人数で航行できる

千石船(大きさ)…米を1000石約150t以上積める、馬1250頭分!

買積船(海のデパート)…大阪、瀬戸内、東北、北海道を往復、各地の物産を寄港地で買って売る

※1回の航海の利益約1000両(1億円)!!

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なんで西廻り航路がはったつしたんだろう?

東廻り航路は江戸に直せつ行くし、きょりも短いのに・・・海流や風、台風の影響かな?

調べて分かった!

理由は、西廻り航路の方が運賃が安かったから。

そして、東廻り航路の方は近いがとてもきけんな海域がつづくから。

東廻り航路を、東北から江戸や大阪に向かうとき「黒潮(日本海流)」にさからってすすまなければなりません。黒潮は幅が最大で100kmもあり、流れも秒速2mとひじょうに速いのです。

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では、北前船は何を運んでいたのかな?

調べて分かった!

調味料・・・砂糖、醤油、酢、みそ

お菓子・・・落雁(らくがん)、金平糖

果物・・・ミカン、柿の実

食材・・・くず粉、茶葉、大豆、大麦、そうめん、かつお節、シイタケ、クジラ肉、米ぬか、そば粉、干しエビ、わかめ、こんにゃく玉、黒ゴマ

工芸品・・・陶磁器、ひな人形、太鼓、木像、しっ器、扇子、畳

調理具・・・すり鉢、鍋

材料・・・真綿、麻糸、藍玉、石灰、材木板

日用品・・・飯わっぱ(弁当箱)、ろうそく、菜種油、布団、刃物、煙草、薪、傘、ぞうり、下駄、線香、ほうき、砥石、チリ紙、足袋、雪駄

※わたしが調べた一例です。

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地域ごとにみるとどうだろう?たとえば・・・

商品のほかに、もう一つ運んでいたのが、各地の「文化」でした。

・昆布(北海道→西日本) 西日本の和食文化の基礎に
・九州のハイヤ節→新潟県の佐渡おけさ、青森の津軽アイヤ節
・島根の出雲節→秋田船方節

秋田に各地の方言も運びました。

「んだばって」=だけどは、「ばってん」の博多弁
「おおぎね」=ありがとうは、「おおきに」の関西弁などです

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たくさん質問したよ!
調べていくうちにさらに疑問が出てきたので、秋田市土崎みなと歴史伝承館や酒田市立資料館で聞いてみました。

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北前船の大きさや重さはどれくらいですか?
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わたしの予想

長さ20mくらい、幅10mくらい

調べて分かった!

千石船の重さはおよそ100t。長さ24m、幅9m、深さ3m、帆の総幅19m。材料は、杉やひのき。

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1年で最大何往復したのですか?
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わたしの予想

3往復

調べて分かった!

1年で最大2往復していました。

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女性がのったことはありますか?
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わたしの予想

ある。観光客として子どもものってたのかな?

調べて分かった!

ありません。少しでも多くの荷物をつむため、観光客はのせていません。

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もうけたお金はどうやって分けていたの?

船頭が決めるので船頭しだいです。

1航海の給料はたった2,3両でした。しかし船頭には、船主の積み荷の1割程度、自分の商品を積むことが許され、1航海で百両かせぐことができました。

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どれくらいの速さで航海したの?

(自分で調べた)北前船は、時速約5.6~7.4km。
風と潮流に恵まれれば、時速約11.1kmに達しました。

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能代では?

見てきました!

能代凧(べらぼう凧)・・・北前船の灯台代わりに使ったとされる

挽き臼の墓・・・天保の大飢きんに苦しむ人に、積み荷の米をおろし、おかゆをふるまった紙谷仁蔵の墓

旧料亭 金勇・・・北前船の船主たちが利用したと考えられる

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秋田港(土崎港)では?

北前船に関する8ヶ所をめぐってカードをもらってきました。

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秋田県立博物館で「秋田風俗絵巻」を見ました。

男鹿の山を背景に、北前船が停泊する港が描かれています。

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酒田では?

酒田市立資料館で北前船のもけいを見ました。

北前船の帆が予想よりも大きくてとてもおどろきました。

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おもったこと

北前船は大阪と北海道を西廻り航路で結んでいた船で、それが登場するきっかけとなった歴史や、河村瑞賢という重要な人物を知ることができました。

北前船は食べ物、日用品、文化などを全国各地から大阪や江戸に運んだことで、人々の生活がはなやかになってどんどん発てんしていったんだと思います。物だけでなく人々の想いものせた北前船が来たら、そこで、たくさんの物語がうまれていたのかなと思いました。

北前船は、人々のバトンリレー

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